2022/2/3

共通テスト前後のあれこれ

大学入学共通テストも終了し、私立大学入試も本格化し始めています。

 

ことし(2022年1月)の大学入学共通テストをめぐっては、いくつも色んなことがありました。個別の事件について直接触れることはしませんが、受験生を不要に混乱・困惑させるようなことがいくつも起こってしまいました。

とくに刑事事件に発展してしまったケースについていえば、それぞれの行いは全て許されないものであり、許容すべきではありません。

ただ、そうした事件一つ一つに眉をしかめるだけでは大人としてあまりに不本意です。

また、こうした場合には事件を起こした当事者の倫理観や無責任さまたは幼稚さ、そうしたことが批判されるのはやむを得ないところがありますが、それをただ煽るような報道に追従したり、報道を受けて感情的にいろいろ言葉を散らかすことは却ってよろしくないとも個人的には考えます。

こうした事件の被害者の方々、関係者の方々の心と体のケア、今後が第一であるのは言うまでもないことです。

そのうえで、こうした事件の再発防止に対しては、どう考えていくのが良いのでしょうか。

それほど多くの記事などを見ていないのでこれは印象の域を出ませんが、「再発防止」ということを大手メディアがしっかりと考えた例はあまり知りません。おおむね「容疑者の人間像」であったり「卒業文集にこんなことを書く人間だった」というようなことを書き散らしたものが見られる程度だったように思います。

そうした報道に意味があるのかないのかは、それぞれが考えるべきなのでしょうが、こうした「特異な人間としての加害者」を取り上げることと、「事件の再発防止」にはあまり相関がないと考えます。「特異な人間には気を付けろ」という警句が、おそらくは特定の文脈で語られたとしたら、多くの歴史上の不幸をなぞるだけになると思うのです。また、こうした事件を起こす人がそれほど自らの特異性を自覚しているとは思われませんし、むしろ知っていてやっていることの方が多いでしょう。

わたし個人としての解決策があるのかと言われれば、個人で解決のために即座に実行できるものはないと言わざるを得ません。

正直なところ、「健全な社会の成長」以外に防ぐ手立てはないし、人間がこれだけ多く存在する以上、不確定要素を排除するということはどうしても無理に思われるからです。

「健全な社会」というのは、要は「高い倫理観が共有された社会」ということに尽きようと思います。

たらればの話をしても仕方ありませんが、今回の大学入学共通テスト前後に起こってしまった事件のようなケースの再発については、ここまで受験、というよりも「特定の大学・学群」への競争激化だけが目立つ状況を回避できれば、減らすことは可能だと考えています。

職業柄、「合格実績」というものと無縁ではいられませんし、激化した受験があるからこそ生業としてやっていけている部分もありますから、そこについては偉そうなことは勿論、言えません。

ただ、「◎◎大学に受かることが勝利」であるとか、「◎◎学部に行けなければ負け組」というようなことについては、可能な限り抵抗したいとも考えています。これは、不文律のようになってしまっていますが、「事実なんだから仕方がない」という考え方が健全とは、個人的には思われません。

実際問題として、「学歴フィルタ」のようなものは厳然として存在しているわけですし、大学ごとの大企業への就職率や、特定の専門職資格試験への合格率など、既にある濃淡というのは消せないものです。

翻って、世界で価値ある行いを実践している人とその学歴にはさほど関連性はないようにも考えられます(社会で認められた価値があろうがなかろうが、どんな人間にも存在意義はあるのですが)。

地位ということで言えば、企業の代表取締役で「大卒以上でない」割合は15%程度もあると言われていますし、内閣総理大臣には田中角栄のような人もいました。また、所謂「東京一工」といった最難関大学群卒の人だけでもありません。

それだけでなく、実際のところ「社会的な地位」と「人生の満足度」には、直接の相関はないと考えるのが妥当です。こうしたことは定量的な検証が不可能であるというだけでなく、人間の感情的な「満足」というのは、大なり小なり属性以外の「運」「確率」に依存するものと考えられるからです。

かりに「医学部に合格できた」としても、または「東大に入れた」としても、刑事事件で被告人となってしまえば社会的にはそういう目で見られることになります(もちろんその後挽回することは可能です)。

実際のところ、ここが「高い倫理観」の話になるわけですが、与党の大臣までのぼり詰めた政治家が収賄で有罪になったり、大企業で巨万の富を得ながらも、その手法が刑事罰の対象であったりといったことは、あまりに多くはないかと思うわけですね。刑事事件とまでいかずとも、ある程度の知名度も権威もある人が特定の職業の方々を蔑視するような放言をしでかしたり、性差別発言をした後に居直ったり…。

極端に過ぎると言われればそれまでかもしれませんが、いろんな「立派な人たち」の言動を見ていると、お世辞にも高いとはいえない大人の側の倫理観に、暗澹とした気持ちにさせられることがあまりに多いのではないでしょうか。

また、仮に子どもが何か大変なことをしでかしたとして、一義的にその子の行いが非難されるのは致し方ないにしても、「大人の側が無謬である」ということにはなりません。むしろ、子どもに絶望を与える世の中にしていないか、その絶望を強いるような考え方や物言いをしていないか、そういうことへの自問が普段からなされているのか。ダイレクトにそのことが問われているのではないでしょうか。

コロナ禍で子どもへの虐待が潜在化しているという報道もあります。

https://news.yahoo.co.jp/articles/f35100ecef8ca33cb9009c13ac2b8923a09844f9

合わせ鏡というほど大人と子どもは一対のものではないと個人的には考えていますが、それにしても「(自分を含めた)大人は果たしてそんなに立派だろうか」という問いかけを、平素から自分に向けていると、なんとも申し訳ない気分にもさせられるのです。

講師:粕川優治

究進塾副代表。文系大学受験、および日大内部進学コースの責任者をしております。

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