2019/11/19

因果関係はかように大切である(英語民間試験の導入について)

大学入試をめぐる報道は今頃になって加熱しつつあります(問題が指摘されていたのは2年以上前からなのですが、ようやく【報道のみなさま】が重い腰を上げてくれたようです)。

いろいろな状況から、いろいろな色眼鏡で見られることの多い問題です。政治的な見方をすれば、「(教育の内容はともかく)政権を追い落とす好機である」という革新寄りの人たちにとって好餌と言えなくもないでしょう。また逆に保守層、その中でもいろいろ大人の事情でことを進めてきた人たちからすると「停滞」であり「国益を損ねる」ことなのかもしれません。

たかが塾屋のわたしとしては、本来の主役であるべき「子どもたち」の存在が捨象されないことを祈るばかりです(その立場にないと言われてしまえばそれまでですが)。

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さて、このブログの目的はもちろん何等かの主張のために特定個人や機関を批判することではありませんので、今回の「民間英語試験導入延期」からは少し離れ、「英語4技能を向上させること」について私見を述べたいと思っています。

近年になって「急に」言われるようになった「英語4技能」。4技能というからには、それぞれをご紹介しなければなりません。

一般的に「英語4技能」と称されるものにはこのようなものがあります。

①読む (reading)
②聴く(listening)
③書く(writing)
④話す(speaking)

このうち、特に英語の「革命」をいう方々の主張はおおむね③の「書」と④の「話」に集中しているであろうと思われます。おおむね多くのメディアを見ても比較的多くの人が、それらを「克服」することが国を豊かにする、という論調のようです。

一つ一つを掘り下げていくと膨大な分量になり、結局のところデータをいろいろなところから持ってくるだけになってしまいますので、今回はタイトルにもありますように「因果関係」といった点に絞ってお話をさせていただきます。

具体的には、やや簡素にデフォルメすることをお許しいただきたいのですが、

■原因「大学入試に英語民間試験を導入する」
■結果「読み・聴きに加え書ける・話せる日本人が増える」

というような形にまとめられると思います。

因果関係というのはここで分けて考えれば当然「原因」と「結果」といったシンプルな論理関係です。ただし、この因果関係に含まれるもののうち、結果は文字通り考えれば「当然導かれるべき帰結」なのですが、ときに「私の/俺の言いたいこと=いろいろ(好き勝手に)述べる人それぞれの落としどころ」というカテゴリに含まれてしまうため、実は無理に簡略化されたり、途中の関係が見えにくくなったりするものもあります。

卑近な例を挙げますと、

 「雨が降った」(原因)→「地面が濡れている」(結果)

シンプルな例ですし、屋外であればあまり(厳密なところは分かりませんが)異論が出にくい部分です。「逆も真」が成り立つことになるでしょう。ところが、次はどうでしょうか。

 「あの先生は教え方が悪い」(原因)→「うちの子は成績が悪い」(結果)

塾屋としてはかなり攻めた(失礼)例ではありますが、これはどうでしょうか。原因がすなわち結果に結びつくかどうか、かなり微妙なところではないでしょうか。そもそも授業を聞いていない、もしくは宿題を課されてもやっていない。休みがちである…。合間に入ってくるいろいろな事象を検証していかないことにはすぐに成り立つとは言えないでしょう。自分に都合のよい「ストーリー」を作り上げてしまってはいないでしょうか。

こんな屁理屈はどうでもいいのですが、これがことこの国の教育においてはまかり通りかねないというか、非常に分かりづらいところです。

というのは、とても乱雑にくくってしまいますと「試験を変えれば英語のできる日本人が増える」という、少し信じがたい主張が事実、まかり通っているということです。一部再掲になりますが、

■原因´「読み書きに偏重した教育が行われている」

■結果´「読み・聴きはできても書けない・話せない日本人が多くいる」

■新たに意図的に生じさせる原因「大学入試に英語民間試験を導入する」

■新たに生じた原因による結果
「書く・話す能力に焦点を当てた指導が中心になる」
「読み・聴きに加え書ける・話せる日本人が増える」
(「読み書きに偏重した教育が行われている」というのは耳の痛い話で、わたしのような塾屋は素直に反省すべきだと個人的には思っています。) 

いかがでしょうか。ある程度「ストーリー」に乗っかってしまえば、自然な言説に聞こえます。

結局のところ、その「ストーリー」に踊らされてしまってはいないだろうか、というのが今回最も申し上げたいことです。とはいえ変革であるとか改革であるとか、「やりたい」と言い出す側の動機についていろいろ推察するのは本意ではありませんので、あくまでも因果関係が成り立っているのかどうかについて私見を述べておきます。またよく世間で言われるように「TOEICで高得点を記録する人が増えているのに話せる人が増えていない」という論調にも触れません(検証不能だからです)。

個人的に感じるのは、(A)「大学入試に英語民間試験を導入する」ことによって「書ける・話せる日本人が増える」というのはかなり乱暴な物言いであるということです。

なぜかというならば、「試験を変えると学校などの教育機関での指導が変わる」ということは必ずしも言えないからです。それこそ属人的なスキルだけが独り歩きしますし、全ての教員がそれに対応できるかどうかがクリアになっていなければなりません。それは本当に物理的に可能なのでしょうか。次のようなニュースを見るにつけ、教員の先生方にそんな余裕があるようには思えません。

教員むしばむ「心の病」 パワハラ、業務過多…休職後絶たず(神戸新聞、1116日)

特に公立の学校のお話にはなりますが、そもそも公立校での授業を基準に入学試験は考えるべきだと思います。

これを補うために塾やその他スクールの活用となると、それこそ英語民間試験以上に経済格差が問題になってきます。少なくとも、「大人」がこの制度を論理的に、つまり「因果関係」をクリアにして説明しない以上、問題の幕引きにはなりえないと感じています。

また、次に、仮に教育現場の状況が整った(何をもって整ったかの基準もないわけですが)として、(B)「試験を新しくすればそれでOK」にはなりえないと感じています。大学受験生を仮に年間50万人前後とすると、そのうち何人が英語の話せる人になるでしょうか。

おそらくは、日常レベルで英語に触れなくなる大学生は相当程度いると思います。仮に年間50万人の受験生のうち5万人が英語を専攻するとしたら、残りの45万人は、「自分の努力だけで」英会話やライティングスキルを高めていくことになるのでしょうか。「自分の努力だけ」というのが言い過ぎというなら、大学の講義のうち英語にかかわるコンテンツが増えないことには、またスピーキングやライティングにかかわるコンテンツが増えない限りは、自発的に何等かの負荷をかけなければなりませんが、その部分について指摘しているものが、少なくとも説得力のある言説がほぼ皆無なのです。

なぜかといえば、(C)「試験を変える」ことだけがほぼ目的になりつつあるからです。なぜ「教育現場と教育カリキュラムを先に充実させる」ことにならないのでしょうか。

そもそもが、教育(高等教育に限って申し上げたとしても)の目的は「試験合格」ではないはずですから、「試験を変えたらハッピー」であるとか、公平性が確保できてすらいないのに、効果検証もかなり怪しい試験導入を決め、今までの教育が無駄だったと学生たちに宣告することは「トレードオフ」などという乱暴なことばで、大人だけのロジックで済ませるべきことではないでしょう。 

個人的な結論としては、「大学入試に英語民間試験を導入すれば」➡「読み・書きに加え書ける・話せる日本人が増える」ということについて、因果関係は成り立っていないと思います。それどころか、不透明なプロセスで、教育コンテンツよりも先に「試験の変更」だけが言われてきたことに強い違和感をおぼえます。

つまりは、順序が逆なのです。

推奨するべき順番とは、下記の通りでしょう。

①話せる・書けるようなコンテンツを「生徒たちが消化できていること」
②次の段階として、4技能を「公平に」「妥当な形で」評価できる仕組みを確立すること。
③コンテンツ・評価制度を検証する(これがプレテストの役割のはず)。 

この順番を崩さずに改革を進めれば、合意形成は各段階でなされ、場合によっては細かな議論も生じてきます。その間に利益相反関係がないのか、あったら解消すべきでしょう。こうしたことには時間がかかるのに、その時間をかけずにやろうとするのがそもそもの誤りです。

勢いでごまかすようなやり方を許すことは、許されるべきでないと思います。なぜなら子どもたちには「論理的思考能力」の涵養を求め、「多様性」を貴ぶように言っている大人の側が背信行為を黙認させるなど、それこそが論理破綻だからです。一番大事なことは子どもたちの将来でありそれはつまり日本という国の行き先です。そこを勘違いしたものは「改悪」と言わざるをえないでしょう。

 

講師:粕川優治

横浜みなとみらい校校長。1977年生。上智大学文学部社会福祉学科卒業。大手塾などで指導経験を積み、英語、国語指導に熟練している講師でありながら、校長としても活躍中。

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