2024/3/2

「古典」という科目は何の役に立つのか?

またネット上の記事きっかけではありますが、そこそこ話題になっていたのが下記のようなものです。

古典の授業は「無駄」? SNSで議論白熱、あるタレントの発言きっかけに

正直なところ、この議論についても、だいぶ昔からの繰り返しではありますが、大学入試が一段落したところでまた盛り上がっていたようです。
このことについては、自分自身も不真面目な学生でしたから、高校時代に考えたことはあり、大筋として今でも考え方はあまり変わっていません。

あくまでも個人的な意見ですが、「古典」という科目は「他者理解の基礎づくり」を目的にしたものだと考えています。

何十年も前のこと、高校のときの、古典担当の先生が、私はたいそう苦手でした。「ほめる」「評価する」ことがあまりなく、「叱る」「嫌味を言う」のが得意な先生でした(ひょっとしたら何か意図があったのかもしれませんが…)。

ある時などは宿題をやるのを忘れて(やれよ)、授業中に衆人環視のもとつるし上げに遭い、個人的な感情はまず「古典」という科目ではなく「先生」という人に向きました。

そこからやや反抗的な気持ちになり、「授業はろくに聞かず自分自身で作品と向き合ってみる」という、今になって考えてみると大分大人げない行動に出たのです。そのおかげで(せいで?)いろいろと「古典を学ぶって、どんな意味があるのか」ということを考える機会と時間だけはありました。

古典が苦手という人は多いですが、その理由もさまざまです。しかし、多くの「古典が嫌い」という人に共通しているのは、登場人物の考え方、そしてその考え方のもととなる「価値観」がわからない、ということだと思います。

結論から申し上げますと、「他者の考えがわからない」というのは当たり前のことなので、「そこからどうするかを考える」ことが古典の意義でもあるのかもしれない、というようなことです。

例えば、古文(日本の古い文章)においては、貴族層によく「出家」という行動が見られます。

家族に不幸があったり、大失恋をしたり、これまで心血を注いできた何かを断念したり…挫折したとき、何らかの形で現在の世の中に対して諦めのような気持がでてきたとき、私たちは何をするでしょうか。それこそ様々でしょうが、美味しいものを食べたり、ひたすら好きなアニメをみたり、旅行に行ったり…

これが、平安時代などの貴族になると、「出家(仏門に入る)」という行動につながることが非常に多いわけです。

当時の貴族層にとっては仏教に関する教養が必須であったり、また仏教の教えが人生観のもとになるものだったりするわけです。現世は「憂き世」であり、成仏して来世に期待するというものですね。

現在でも出家するという人はゼロではないでしょうが、選択肢はさまざまであり、少なくともメジャーなものではないでしょう。

出家に限らず、いろいろな行動や価値観の違いが生じる理由には、社会体制の違いもあります。今のように身分差もなく、選択肢の多い世の中とは違い、極めていびつな社会でもありました。当然貴族には貴族の、平民には平民の苦労があり、平民は日々生きることもままならなかったことは容易に推察できます。しかし、それでもなお、当時の人たちが悲劇の主人公のように振る舞っていたかというと、決してそうではありません(中にはそういう人がいたかもしれませんが、それは現在でも同じことです)。古文では、平安までは多くの文章に貴族しか出てきません。その貴族でさえ、生まれた家であったりタイミングであったり、思うにまかせぬことは多かった。しかしそれでも人は懸命に生きていて、何某かの楽しみだとか生きがいを見つけようとしていたのです。

そして、身分差ももちろんですが性については「差別」という考え方自体がありません。推古天皇のように女性で帝位についた人もいましたが、役職付きの役人たちは男性がほとんど。そして、菅原孝標女や藤原道綱母のように、女性は名前を公にすることもなく過ごさざるを得なかった。男性社会であったことは容易にわかると思います。しかしそのような中でも、文学作品という形で爪痕を残した女性たちは非常に多いわけです。こうした女性たちは、不平等が常識であった社会においても、精いっぱい生きていたわけで、そして男性を凌ぐような立派な足跡を残しているわけですね。こういう人たちの生きざまというのを知っていくことは、とても大事なことだと考えています。また、「こんなに優れた作品を残した女性でも、当時は理不尽な苦労を強いられていたのだな」と考えることは、社会をより良くするための考えの基礎になるはずです。

現代を生きるわたしたちにあっても、他者理解というのは容易なことではありません。
何も外国の人たちとの関わりを例に出さなくとも、周りにいる人たちとの間で「なかなか言いたいことが伝わらない」だとか、「何を考えているのだろう」などと、人とのかかわりにおける悩みというのは尽きないものです。対面している相手であってもそうなのですから、100年・500年・1000年も昔の人たちに思いを馳せるのは容易なことではありません。

しかし逆に、過去の人たちのことが少しでもわかるようになると、それを現代の人との関係に活かすことはできるように思っています。何しろ共通部分が多いわけですから。

そして、これは蛇足かもしれませんが、「ものの考え方」というのはたくさん知っていればいるほど良いと個人的には考えています。自分の考え方というのは、他の人のそれと比較してみるとその問題点だとか、逆に優れたところが見えやすくなります。一人で考え込んでしまうと、周りが見えなくなってしまうものです。理不尽な時代の中でも独創的な考え方をしていた人たちはたくさんいるわけです。逆に、今からしてみると愚かだなあ、という考え方もたくさんあったのではないかと思います。そうやって、自分の考えというのを「相対化」するための材料として、古典に学ぶことはかなりあるのではないかと考えています。

ほぼほぼ古文ばかりに触れてきて、漢文についてはほとんど触れられませんでした。
また乱文になりましたことをお詫びして、今回は終わります。すみませんでした…

講師:粕川優治

究進塾副代表。文系大学受験、および日大内部進学コースの責任者をしております。

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