2024/2/19

巣鴨学園での6年間を振り返っての検証①~規律主義~

今回は、私自身が長らく向き合うことを避けてきたテーマについて踏み込んでみたいと思います。それは、中学高校の6年間を過ごした巣鴨学園での生活、そしてそれが現在どのように活きているのかいないのか、ひいては、よかったのか悪かったのか、教える立場となった現在から振り返ってみたいと思います。

まず、当時の巣鴨学園(※1991年入学~1997年卒業)の特徴として挙げられるものを思いつく順番に挙げて行きます。

①規律主義
時代は平成が始まったばかり、ドラマ「不適切にもほどがある」から5年後ですので、鉄拳制裁は当たり前にあった時代です。しかも巣鴨は当時の校長先生が「うちは駄馬を名馬にする学校」という指導方針を学校説明会で言っていたくらいなので「スパルタ主義」(←最近あまり聞かなくなりましたが・・・)というのはある程度覚悟はしていました。何を隠そう私も、ふんわりと「このままだと自分は甘ったれになってしまう」「厳しい環境で鍛えてもらいたい」と思っていました。とは言え、公立小学校や中学受験に通っていた有名学習塾では、威圧感のある先生や怒ると声を荒げる先生はいたものの、鉄拳制裁はめったになかったので、巣鴨に入学した直後のカルチャー・ショックは大きかったです。

入学してまもなく集められた会で、当時学年主任だった先生の「隣にいるのは友達ではない。敵だと思え!」という、映画「バトルロワイヤル」のビートたけし扮する教師のような(←時代は前後しますが)大号令を聞いたときは「大変なところに入ってしまったな^^;」と後悔したものでした。

詳細なエピソードは(学校や教師の名誉のため)省きますが、中学3年間は体罰が当たり前にありましたし、それも教師がカッとなって手が出るといった生易しいものではなく、もっと計画的な暴力ともいえるものでした・・・。私自身、それほど目立つタイプではなく、教師に目を付けられるタイプではなかったものの、中2のときに教師から理不尽な理由で(と今でも思っていますが)暴力を受けたことがありました。そのときのことは今でも不意に思い出しますし、それを思い出すたびに、ふつふつとその教師への怒りが沸いてきてしまう自分がいます。

ともかく、中学の2年間は、一言でまとめると「教師達による暴力と恐怖による支配」というのが大きな特徴でした。

また、巣鴨独自の、所謂「強権」的な学校行事やイベントやルールが盛り沢山でした。

【朝礼】
週2回ある朝礼では、校長先生の話が長く、その間は先生に見張られながら直立して聞かなければならないので、入ったばかりの中学1年生は度々貧血で倒れるのが毎年初夏の恒例の光景でした。私も例に違わず、貧血で倒れました。

【巣園体操】
2限目が終わった後に毎日校庭に出て行う巣園体操。「天突き」など異様としか言いようのない動きがふんだんで、大人になって巣鴨の近所で暮らすことになった現在は、そのカルト感を痛感します。

【季節ごとの学校行事】
春=大菩薩峠越え競歩大会
夏=巣園流、勉強合宿
秋=マラソン大会
冬=寒稽古

というのが巣鴨学園の学校行事ですが、いずれも根底には、「辛いことも耐え抜くことで精神が強くなる」という、いわば昭和的な根性論に基づいていると理解しています。
ただ、意外なことに、大菩薩峠越え競歩大会では、1年目は地獄のように辛かったですが、2年目以降は意外と慣れてしまって友人と話しながら登る楽しさを覚えたりとか、一緒に登った友人とは「戦友」のように、妙に絆が深まる部分はあったと思います。また、この大会にも「ちゃんと」順位付けがありまして、私が一緒に登っていた友人達はあまり順位は気にしないグループだったのですが、そんな中でもゴール直前になると、目先のよい順位を求めたがって早足になる友人もいたりして、「こういうときこそ人の本性が見えるものだな」という妙な発見があったりしました。何より「登山」という自然の壮大さを体感できたり、学校の意図を超えた効果があって、結果的に、現在振り返ったときに、数ある巣園行事の中でも、最もポジティブな記憶として残っています。

そのほか、覚えていることとしては「寒稽古の最終日に出される豚汁は美味しい」といった、当たり前と言えば当たり前の発見はありました。

【毎朝校門をくぐるときには校帽着用】
正確には「登校時は常に校帽着用しなければならない」というルールだったと認識しています。なので、厳しい先生に会うと、駅から向かう途中でも無帽を注意されるのですが、少なくとも校門をくぐるときには校帽着用は必須でした。万が一、校帽を忘れると、かばんを空けさせられて荷物検査を受けることになります。それだけは避けたいので、「帽子だけは絶対忘れないように」という意識づけはされたように思います。
→これは現在も「あれは忘れちゃいけない」と意識するのに少し役立ってるかもしれません。

【置き勉禁止】
「学校の教科書は全て持ち帰らないといけない」というルールでした。定期的にロッカーを空けての検査があるので、置き勉はできないんですね。それでいて、かばんは昔ながらの革鞄、そこに教科書をつめこんで登下校するので、両手にはまめができました。
まめは消えることがなく、高校に入ってからルールがだいぶ緩くなったこともあり、かばんが軽くなるにつれて薄れていきました。ですが、今でもうっすら跡があります。中学入学当時、特にひ弱だった私は、「握力が鍛えられる」と前向きに捉えていましたが、今振り返ってみると、これも理不尽で非合理的なルールだったかもしれません。

【頭髪・服装】
茶髪・長髪は禁止でしたし、だらしのない格好、具体的には当時はやっていた「腰パン」などは厳禁でした。担任はもちろんですが、それ以外にも体育教師、武道教師、部活の顧問、生活指導の先生など校内に目を光らせている先生が大勢いたので、そのうちの誰かに目をつけられたら最後、呼び出されて説教され、「頭髪を来週までに短くしてくること」と注意されます。なかには守らずに、バリカンで坊主頭にされている同級生もいたものです。

【まとめ(性格に与える影響)】
基本的に「出る杭は打たれる」という学校方針なので、目立つということを避けるようになったということは言えるでしょう。中には反骨精神でそれに逆らおうとする動きもありましたし、私自身そういった同級生と気が合う部分はありましたが、結局その後は面倒なことになるので、「目立たないにこしたことはない」という精神が備わった部分はあります。これが大人になって、上手な自己主張・自己表現が問われ、発信力が問われる今を生きる上では足枷になっていると感じる部分は正直あります。

では、よい部分はなかったのか?というと「我慢強くなった」ということは言えるでしょう。これだけ「理不尽」とも言うべき学校行事が続くので、「耐え忍ぶ」姿勢が身に付きます。もっとも、耐えられずに転校していく学友はいました。学年が変わるごとに、学年全体で1,2名程度(※正確な数は覚えていませんが)は他校にいきましたし、中学から高校に代わるタイミングで、10名程度(※こちらもあくまで私の記憶の限りです)が他校に転校しました。そんな中で、高校卒業まで残った巣鴨生はひとまず「理不尽」に「耐え抜いた」ということは言えると思います。このことを、在学中および卒業してもしばらくは単純に「あの厳しさを耐え抜いたことで、メンタルがタフになった」と理解していたのですが、今振り返ってみれば、むしろ、自己防御のために、感受性を鈍化させ、様々なことへの解像度が粗くなって順応していただけかもしれません。

さて、長くなってしまいましたが、1回目はこの辺にしておきましょう。次回は、巣鴨の特徴ともいえる「ペーパーテスト×順位 至上主義」について触れていきたいと思います。

究進塾代表 : 並木陽児

大学受験生に化学を教えています。最近ハマっていることは、川遊び(ガサガサ)と魚の飼育です。

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